SSブログ

【Ot-Channel】三山時代の城趾 - 北山城趾::今帰仁城 [Ot-Channel動画]

寒緋桜や世界遺産として知られる今帰仁城は、尚巴志によって琉球王国に統一される前の三山時代には北山の王の居城でした。
首里城に匹敵するほどの大きさで、地形に合わせ弧を描く石垣が美しく、世界遺産のほか、2006年には、日本の名城100選のひとつにも選ばれています。
北山を滅ぼした尚巴志は、琉球王国統一後は、今帰仁城に自分の次男の尚忠を北山の統治と監視のために監守として派遣しました。
それほど今帰仁城は、沖縄本島北部の守りの要に適した場所に存在します。今回は、そんな今帰仁城を紹介します。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Channel】三山時代の城跡 - 南山城跡 [Ot-Channel動画]

地元で南山グスクと呼ばれる南山城趾は、高嶺小学校と高嶺中学校に挟まれるような格好で残された珍しい城跡でした。
三山時代のほかの城趾である今帰仁城趾や、首里城などと比べると、立派な郭などは残っておらす、その跡地には現在は小学校が建ち、ひっそりとした印象の城趾で、意外な感じでした。
城趾内には、石垣の一部が残されており、場所によっては異なる積み方をしており、いろいろな技法を見ることができるほか、城趾内に神社があるなど、珍しい城趾でもあります。
また城内には「沖縄の名木百選」に選ばれたガジュマルが群生しており、三山時代の城趾としては、観光客も少なく、比較的静かで落ち着いた、それでいてほかにない特徴の多い珍しい城趾です。


nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】琉球王国誕生物語 群雄割拠の100年(三山時代) [Ot-Channel動画]

アマミキヨが沖縄を作った後、アマミキヨの連れてきた男女の神の子である天孫氏が収めていた沖縄は、日本の鎌倉や室町時代に当たる14世紀に、三山時代と言われる一種の戦国時代が約100年続きました。その間、それまでの各地で力を付けていた按司と呼ばれる豪族の中から近隣の按司を束ねる王が現れ、やがて北山・中山・南山の3つの国にわかれそのそれぞれ3つの国が琉球の統一を目指す動きが起こり始めました。
その中から、佐敷の按司であった尚巴志が、1429年にこれら3つの国を滅ぼし琉球王国へと統一し、その後明治時代までの間、第一尚氏7代40年・第二尚氏一族が19代410年の間統治していくことになります。
三山時代の頃からは、中国・明とも交易があり、尚巴志は中国はもとより日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を促進し、首里城をはじめとする首里の整備を行いました。政治顧問として中国人の懐機を重用するなど、斬新な施策を行った人物でもあります。
尚巴志は、39年4月20日死去。首里の天山陵に安葬されたといわれています。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】天女伝説も残る聖地「御殿山」 東御廻りの聖地2 [Ot-Channel動画]

さて、園比屋武御嶽から始まる東御廻りの14カ所の聖地のうち、これまで工事中でご紹介できなかった御殿山が平成31年3月に完成しましたので、最後に紹介しました。
御殿山は、古くは海辺であったことから、別名「浜の御殿」とも呼ばれています。
琉球古来の伝統社会について書かれているいる琉球国由来記によれば、ここ御殿山の神名は「アマオレツカサ」で、天女が天から舞い降りた場所と記されています。また御新下りと言われる琉球王国最高神女・聞得大君の即位儀礼の際にはこの地に仮御殿が造られ、聖水の儀式・御水撫で(うびなでぃ)がここで行われました。さらに琉球国王や聞得大君が聖なる島・久高島へ参詣する際の発着地でもあり、そのときも仮御殿が造られ、ここ与那原の浜から久高島へ渡ったとされています。
残念ながら拝所は沖縄戦によって消失し、現在は元の場所から若干移動。かつては門中の巡礼地にこの地は入っていなかったものの、王府とゆかりのある要所として、現在では多くの参拝者が訪れています。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】アマミキヨの安住の地「ミントングスク」 東御廻りの聖地13 [Ot-Channel動画]

久高島からヤハラズカサに降り立ったアマミキヨは、浜川御嶽に仮住まいをした後、高台のこの場所にグスク(城)を築き、安住の地としてここに住み着き、この地で子孫が繁栄して沖縄中に広がったと伝えられています。
久高島開びゃく、稲の発祥など、この地にまつわる伝説は実に多岐にわたります。
その一方で、グスク頂上付近の岩陰や小洞窟には神墓と称されている拝所があり、ここは古代より祭祀遺跡としても名高い場所で、周辺部からは、石斧や沖縄貝塚時代中期の土器片、貝殻が採集されています。
東御廻りの巡礼地であり、県の指定史跡文化財でもありますが、個人の私有地内にありますので、見学の際は私有者に許可を取ってください。迷惑にならないようにくれぐれも心配りをお願いします。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】アマミキヨが仮住まいした「浜川御嶽」 東御廻りの聖地12 [Ot-Channel動画]

浜川御嶽は、百名ビーチ北端の崖上に鎮座している御嶽で、琉球を作ったとされる神アマミキヨが、百名ビーチのヤハラズカサに降り立った後、この場所に湧く泉で旅の疲れを癒やすため、ここに仮住まいを設けたとされています。
その後、アマミキヨは、高台にあるミントングスクへ移り住んだとも言われています。
うっそうと茂る古い樹木、清らかな水が流れる泉、岩山の下に設置された祀や香炉、そのどれもが聖地の神聖なる空気に満ちています。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】アマミキヨが降り立った最初の地「ヤハラズカサ」 東御廻りの聖地11 [Ot-Channel動画]

琉球を作ったと言われるアマミキヨが、沖縄本島で最初に降り立った場所と言われているヤハラズカサは、百名ビーチにあり、その石碑は、満潮時には海中に沈み、干潮の時にしか近づくことのできない場所にあります。
現在、その場所には、琉球石灰岩で作られた石碑があり、石碑の下には、いつの頃からか香炉が設けられています。
アマミキヨは、ここに降り立った後、海岸裏の森の中にある浜川御嶽の場所に仮住まいを設け、その後、高台のミントングスクへ移り住んでいったと言われています。
清らかな砂浜から石碑を眺めると、その左手には、聖なる島 久高島を望むことができます。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】稲作発祥の伝説の舞台「受水・走水」 東御廻りの聖地10 [Ot-Channel動画]

アマミキヨが沖縄本島で、最初に降り立ったと言われるヤハラズカサ、その後仮住まいとして滞在したとされる浜川御嶽の近くのうっそうとした緑の中に、こんこんと湧き続ける2つの泉、受水・走水があります。
穏やかな流れの受水の前には、御穂田(みーふだ)と呼ばれる田があり、流れの速い走水の前には、親田(うぇーだ)と呼ばれる田があり、ここが、前回消化した知念ウッカーのウファカルとともに琉球における稲作発祥の地と言われています。
ここでは、毎年旧暦の初午(はつうま)の日に、稲の始まりを神に感謝する田植えの儀式、親田御願(うぇーだぬうがん)が行われています。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】知念グスクの泉「知念大川」-東御廻りの聖地9 [Ot-Channel動画]

知念グスクに付随する泉だったと言われる知念ウッカーです。
この知念ウッカーの後ろにある、「ウファカル」は、次回紹介する予定の玉城地区の受水走水とともに、アマミキヨによってもたらされた稲作の発祥の地として知られています。
高台にありながら、今でもこんこんと湧き続けている泉は、水資源の貴重だった古来より、琉球王国ならびに地域の人々にとって、最も守り続けなければいけない場所の一つだったのではないでしょうか?
知念グスクにお越しの際は、ぜひとも知念ウッカーまで足を運んでみてください!

ぜひ、YouTUbe動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

【Ot-Cannel】歌謡集にも謡われた「知念グスク」-東御廻りの聖地8 [Ot-Channel動画]

知念グスクは、国指定史跡で、ミーグスク(新城)とクーグスク(古城)とよばれる二つの郭からできています。
古い城は、12世紀末〜13世紀頃、天孫氏時代に築城され、17世紀末に改築されたと考えられています。
城跡内には1761年から1903年に至るまでの間、知念間切の番所、いわゆる役所が置かれていた時代もありました。
知念グスクは、神話の中に登場する「天孫氏」によって築かれたと言われていて、『アマミキヨ』の伝説と尚真王の権威とが結びついたいわば宗教的城という意味でユニークな城跡だといえるかもしれません。

ぜひ、YouTube動画をご覧ください!
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。